カードローンの食わず嫌い
純利益率20%、平均年収600万円台 “異質”な銀行、セブン銀行の収益構造に迫る!
最近はもうATM手数料無料のところが多いが、自分もつい最近までは手数料を払っていた。利息なんてほとんどつかないくせに、1万円おろして100円手数料ってさすがに高いとは思うが、預金額100万円もないような雑魚相手に無料でサービスしろというのもさすがに図々しい話で、文句言うなら1000万くらい預金しろって話だと思ってあきらめていた。閉まるのが早いという不満もあるが、銀行はATM業務がメイン事業ではないので、役所が閉まるのが早いのとはわけが違う。高額預金者用の窓口を作れというのなら、わからなくはないのだが。
ATM手数料払うくらいならカードローンですぐ返したほうが金利が安いという話もある。
返す手間がネックだが、100円かかっていた手数料が、わずか数円のレベルにまで下がるのは見逃せない。借金というと抵抗もあるが、クレジットカードも借金であり、問題は返す見込みとバランスである。クレジットカードのように、銀行口座から返金できるようなルートができれば一番便利なのだが。キャッシングすると同時に、クレジットカード経由で銀行決済なんて最高である。
審査も簡単なものであるそうだから、普段から手数料を払ってしまっている場合は、検討してみる価値があるかもしれない。ネックになるのは、即日融資のための締め切り時間だろうか。時間が早いならそもそもATM手数料もかからないだろうから、やはり最初の1回は事前に準備しておく必要がありそうだ。口座の開設だけという申し込み方法はできるのだろうか?
変わるべきは渡辺美樹ではなく労働基準法
前記事「渡辺美樹をディスって満足か?」を書いたところ、「法律を守っていない」「人が亡くなっている」という指摘をいただいたので、自分の見解を示しておく。
まず法律についてであるが、法律というのは、国家の作ったルールである。しかしこのルールというのは、人間が作ったものである上に、更新される頻度が少ないので、現状に即していない場合がある。
道路交通法なんかはわかりやすいと思うが、「自転車は車道を走れ」や「信号機のない横断歩道は常に歩行者優先」は、真に受けると逆に事故を誘発する。言ってみれば悪法である。
労働基準法も同じじゃないだろうか?銀行勤めの友人は、残業が認められていないから、仕事は家に持ち帰ると言っていた。和民の仕事は、たまたま家に持ち帰れない仕事だっただけという見方もできる。
「飲酒喫煙は20歳から」なんてのは、18歳の大学1年生が破りまくるので形骸化し、17歳以下にも効果がなくなっている。最初から18歳からにしておけば、17歳以下はもう少し守るだろう。これが、本来あるべき法律である。
労働基準法も同じじゃないだろうか?自分は法律の専門家ではないし、経営者でもないので、本来あるべき労働基準法の姿をここで提示することはできないが、少なくとも現在の労働基準法が、守るべきルールというよりは、回避しなくてはいけない制限、もっと言うと邪魔な障害物のような扱いであるように感じる。
変わるべきなのは、和民ではなく、労働基準法なのだ。
次に「人が亡くなっている」件についてであるが、厚労省の労働災害統計によると、2012年の労働災害における死亡者数は1084名である。交通事故で多数の死者が出ている自動車産業の例を出すまでもなく、労災で1年で1000人亡くなっているのである。和民だけあまりにも叩かれすぎじゃないだろうか?
こんにゃくゼリーの件では「もっと危険なモチも禁止するべきだ」なんて意見が多かったのに、和民の件だけこれだけ叩かれるのは、和民叩きありきが先行しているからだ。
もちろん渡辺美樹も脇が甘いが、和民を叩いて終わりにするべき問題じゃない。外食の需要が増えているのに働き手が足りていないこの状況で、労働時間を制限するだけじゃ何も解決しないのは明らかだ。
渡辺美樹をディスって満足か?
"もちろん、大多数の庶民にはそうは映らない。みんなそんな頑丈じゃないし、たいてい勝者より敗者のほうが圧倒的に多い。でも渡辺美樹にとっては、それは切り捨てていい要素だった。影響の小さい要素だった。ここに罠がある。"
ドヤ顔で「シンプルに考えようぜ」って言ってくるヤツ:自分の頭で考えた結果
この記事は渡辺美樹の判断基準が間違ってるって言いたいんだろうけど、ぶっちゃけ、長期的・大局的な視野で見たとき、渡辺美樹は間違っていない。
間違っているのは、目先の利益しか見えてない民衆の方だ。
弱者救済なんて言えば聞こえはいいけど、全員救おうとしたら全員ダメになるのが世の常だ。
和民が従業員を大切にして、残業代は出る、バイトもいっぱい雇ってシフトに余裕を持たせる、なんて方向に舵切るのを、本当にみんな求めているのか?
もっと言えば、枝豆が500円の和民にお前ら行くのか?結局隣の笑笑に行くんじゃないのか?
渡辺美樹は、言ってみれば本田圭祐だ。
自分がとことん高みへ行くことによって、全体のレベルを引き上げようとしている。
本田に、代表初キャップの若造のアドバイスに乗ってあげてほしい、とか言うか?
違うだろう。
本田はそんなステージは、とうの昔に通り過ぎてる。
仲間のほうを向くのではなく、背中で語り、自分は世界の頂点とさらにその先のみを見据える。
そうすることによってのみ、日本代表が次のステージに行けるんだ、そう思ってる。
渡辺美樹も同じだ。
引用先の記事をマネて言えば、弱者救済を切り捨てたわけではなく、弱者救済のためのゴールが、実は世界で勝つことだったわけだ。
「1億円欲しいのか」発言も問題ありそうだが、渡辺美樹にとって、こんな小さな話は正直どうだっていい。
それこそ、シンプルに考えた結果だ。
結局のところ、景気さえよくなればなんだっていいのだ。
日本が沈めば、みんな終わりなのだ。
結果を出し続けてる人間の足を引っ張ってどうするんだ。
石原慎太郎が、木更津の成長戦略とかを口にしたら俺は失望するね。
東京が世界で勝つために、木更津には泣いてもらいます。
これくらい言ってほしい。
愚か者には、はるか先を行っている人間が考えてることなんてどうせ理解できない。
だったら愚か者がするべきことは、足を引っ張ることじゃなくて応援することでしょう。
バカとブスこそTOEIC受けろ
「バカとブスこそ東大へ行け」これはドラマにもなった有名コミック、ドラゴン桜の名ゼリフだが、これを現代版にアレンジしたのがタイトルの「バカとブスこそTOEIC受けろ」になる。
前のエントリー“TOEIC受けるバカ”と真逆のようだが、学歴や英語は、特別な資質がなくても工夫次第で比較的手に入れやすいのに、世の中にはこれらの要素に対してコンプレックスを抱いていたり、正しく評価できなかったりする人が多くいる。
特に就活において大きな武器になるだろう。
ただし、特別な資質がなくてもと書いたが、根性だけは必要である。
根性は最近過小評価されている資質の一つだ。
提案するとか判断するとか、主体性と言われている能力はそれだけで役に立つわけではなく、ただ根性に比べて希少なだけであり、実はあとから身に着けるのが難しいのは根性のほうなのである。
そういう意味で、新卒採用において東大生やTOEICで高得点な学生を採用するのは理にかなっている。
主体性なんてあとから身に着けさせればいいのだ。
TOEICもできないバカは、主体性があったって役には立たない。
新卒採用でもっとも大切なのは、根性がない人間を振るい落とすことだ。
もし僕が今、来年就活を控える学生であったなら、必死でTOEICを勉強するに違いない。
もちろん、アピールしたいのは、英語というスキルではなく、目の前で必要とされるスキルを身に着けることができる根性だ。
そしてこれは、英語そのものを目的とした勉強よりもはるかに簡単だ。
言い換えるなら、必要とされる根性がはるかに小さい。
そもそも英語の勉強なんてものは、「やりたいことがありすぎて、1日が24時間じゃ足りないよー(>_<)」とtweetしているスイーツがやりたがっていることの代表例であり、多くの日本人にとっては、やったほうがいいかもしれないけど必須ではない、例えば掃除みたいなものである。
掃除は来客の直前と試験前にやるのが一番はかどる。
であれば英語の勉強は、海外旅行の前や、仕事の締切直前の繁忙期にやるのが一番だ。
間違っても、ひと段落して時間に余裕のある時などにコツコツやろうとしてはいけない。
一番効果のある時に、一度だけやればいいのだ。
最近もgingerという翻訳ソフトが話題を集めたように、スキルとしての英語なんてせいぜい、翻訳ソフトが苦手としている、専門分野だけできるようになっていれば十分だ。
それは英語とくくってしまうにはあまりにもピンポイントなスキルで、TOEICとはかけ離れている。
今の日本では、英語はクジャクの羽のように使うのが一番役にたつのだ。
プロ棋士=プログラマという時代
非常に残念ながら、将棋においてプログラムは人間を超えてしまった。
将棋はオセロやチェス、囲碁などと同じジャンルで、究極的には先手必勝か後手必勝か引き分けに収束する。
たとえばオセロなんかだとほとんど完全に解明されてしまっていて、後手が必勝する。
将棋はオセロのようにシンプルではないので、プロに勝ったとは言っても必勝法にはまだ遠い。
しかし、プログラムが人間を超えたということは、例えば解説者は必要なくなる。
プログラムがはじき出した「正解」から、プロ棋士が外れた手を指してしまうことによる減点を示していくだけでいいのだ。
「あーっと、羽生これはいけません、3五歩が正解のこの場面、4二銀成と打ってしまいました!」
メジャーリーグよりレベルの劣る日本プロ野球にもこれだけファンがいるのだから、プロ棋士の魅力がなくなるわけではないが、少なくともそこはすでに最高峰ではないのだ。
位置づけ的には、円周率をたくさん言える人、あたりだろうか。
いつかは、将棋にも必勝法が生まれるだろう。
その時こそプロスポーツとしての将棋は死ぬんだろうけど、それまでの最高峰はプログラム対プログラムだ。
プログラムは選択肢の減っていく終盤に強いので、投了のタイミングはプロ棋士のそれよりはるかに早いだろう。
それこそ勝負は居合抜きのように一瞬で決まる。
「後手5二角まで、32手で先手投了」
見ている人間にはまだ五分五分にしか見えない。
棋譜の記憶や、網羅的に先を読むというタスクは、すべてCPUに移譲していかなくてはいけない。
将棋というゲームの真髄をとらえ、いかに効率よく時間を使わずに計算するか、そこが将棋に残された最後のクリエイティブだ。
目の前の手を読むことではなく、より抽象的な概念にゲームのステージは移行する。
プロ棋士たちがプログラムと共闘し、互いの将棋観をぶつけあう、プログラマ棋士が将棋のネクストステージだ。
TOEIC受けるバカ
なんか周りでTOEIC受ける人が増えてるんですよね。
採用の時にTOEICの点数書かせてみたり、TOEICで高得点だった社員にボーナス出したり。
でも正直自分はあんまり受ける気にはならないという人、申し込んでも結局勉強する気にならない人、ぶっちゃけそこまで必要性を感じていないというその感覚は正しいと思う。
ExciteやGoogleで翻訳サービスがある。
これはつまりどういうことかというと、翻訳は機械にだってできるということだ。
iPhoneの音声アシスタント"Siri"みたいなサービスが進化していけば、リアルタイムな翻訳に応用することだってできるだろう。
機械にだってできる、こんなクリエイティブの対極にあるような能力が、果たして本当に必要なんだろうか?
マックのバイトは外国人を低賃金で雇って働かせればいい、プログラミングなんてオフショアでやらせればいい、そんなことを言ってる経営者が、なぜ同じ口で社員にTOEICを推奨したりするのか。
なぜ翻訳なんてSiriにやらせればいい、にならないのか。
もちろん、英語がもてはやされるのには理由がある。
ビジネスになるからだ。英語の教師に求められるスキルは低く、生徒にはセンスがなくてもある程度上達し、でも実力や成長を計測するのは難しい。
アジアの安い学生を教師に使い、他に何もできないバカな生徒を相手に、ダラダラと教え続ける最高のビジネス。
これが数学だったらどうなるか。
数学塾がないのは、英語のほうが重要だからではなく、数学は簡単に教えられるものじゃないから。
教師には当然高い学力が求められるから人件費も高いし、センスのない生徒にはいくら教えても暖簾に腕押し。
学力を数値化しやすいから、ダメな教師はすぐにクビになる。
こりゃハードル高いわ。数学そのものが直接役に立つケースは少ないかもしれないけど、論理的に考える力は常に必要なのに。
英語しかできないという人は、近い将来世界的に必ず余る。
でも論理的な思考能力を持ってる人は、教育環境が劇的によくなったりしない限り、常に不足するだろう。
僕は学生時代、数学が得意で英語が苦手だったけど、これが逆だったらと思うとぞっとする。
英語なんて最後でいいじゃん。もっと先にやるべきことがあるでしょう。
スタート
書きたいこといっぱいある。
とりあえず書いてく。